2024.6.24 お客様との関係を先ずは、「一」から「0」にする!

 

最恐の上司の指導を経て、一営業所の「アフターサービス課」を任される事となりました。

 

とは言え全ての事象を教えていただいた上での異動では、ありませんでしたので新たな経験も積み上げながら

 

進んでいきました。

 

人員が少なく、お客様との約束をそのままになっており、お客様よりお叱りを30分前後いただく事もありました。

 

そこから、今まで補修が完了していない物について早急に終わらすことに注力していきました。

 

お客様との関係を作っていくのは、その後。先ずは、お約束を遂行する事。担当者と言えども職人ではありません。

 

それぞれの職に合った方に来ていただき終わらせていきました。

 

この時は、沢山の職人さんのお力をお借りして完了することができました。

 

お客様からの信頼関係をいただく前段階での対応を、淡々とおこなう。そうして、「マイナス」からようやく「ゼロ」

 

地点に戻れるかもしれない。いや、戻るのだ!と強く思いながらお客様対応をおこなっていきました。

 

その現場には、ほぼ同席していましたので建築に関わる知識を学ぶ事ができ、お客様、また、職人さんとの関係性が取れた

 

ことも私にとっても重要な時となりました。

 

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2024.6.12 「アフターサービス課」に左遷

華やかな、「営業」の世界から谷底にたたき落とされた心境で3年目がスタート。

 

当時その部署は、人数が少なく4名で、住宅の点検、修理、臨時対応を行っていました。

 

当時は、高速道路に限りがあり、場所によっては一日がかりで訪問する所もありました。私と言えば、前向きな志向を手に入れることなく、下ばかりを向いていました。

 

そのような私の志向を変えてくれたのが、上司でした。元大工さんで、「見て覚えろ」を地でいかれていました。普段は、穏やかにお話されますが、曲がったことが大嫌いで自分都合で話をした時には、烈火のごとく叱られました。

 

一つ事例を出します。

お客様から、「排水が流れず困っている」と言う連絡をいただきました。私は、お客様の所に訪問をして現状を確認して会社に戻り、上司に報告すると、「現状を見ただけで何もしなかったのか。お客様は、困って電話してきたにも関わらず何もしないで帰ってくるとは、何事だ。詰まりを解消出来そうな部材を購入して対処してこい。詰まりをなくすのが、山田の仕事じゃないのか?もう一度訪問して直るまで帰ってくるな」と。

 

上司に言われてハッとして、再度訪問をして何とか部材を駆使して詰まりを解消することができました。

上司から、「お客様の為に、できる事を全力でおこなう」事を教えていただきました。その出来事をきっかけに少しづつ私の思考も少しづつ変化していくのでした。

 

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2024.6.12 社会人としてスタート

社会人に向けての初研修が、何と、「東京ディズニーランド」でした。その事から華やかで、思いのままになる世界を想像していましたが、全く違う世界でした。

 

私は、住宅の営業として同期と2名で長野営業所に、配属されました。会社に行けば、優秀な同期と比べられ、アパートも隣でいつも、意識できる環境でした(笑)

 

その当時は、「同期と比べて、自分はどうか?」しか考えていませんでした。ネガティブな志向の私から、住宅を購入してくれる方は勿論無く、どんどん「負のスパイラル」に入り込んでいく事しかできませんでした。

社会人1年目で3棟、2年目で4棟を売るのが精一杯でした。

 

2年目の2月に社長に声を掛けられました。

お話をお聞きすると、「アフターサービス課に異動してくれ!」との内容。

これは、正に左遷でした(笑)

 

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2024.1.13     清水山スキー場での経験②

6年生になると、シーズンが終わってもそのまま下宿をしながら、雪を求めてトレーニングを続け、スキーが滑れなくなると、中学校の中でも一番厳しいバレーボール部に混ざり、体力を付けることに集中していました。

 

そのような経験を経て迎えた小学生最後のシーズンです。シーズンに入り、矢口プロに教えていただいた言葉があります。

「小・中学生の時の失敗なんてあって無いようなものだ。ヘタクソなんだから失敗して当たり前、他の選手より飛ばせばコースをふくらんで当たり前。とにかくぶっ飛ばしてこい」でした。

その言葉を心に秘めてレースに向かうのでありました。

 

中でも印象に残るレースがありましたので、書きます。

46人エントリーをして、私が貰ったゼッケンが45番でした。恩師も応援に駆けつけてくれてスタート前に、「ゴールしてぶっ倒れるくらいガンガン来い!」とアドバイスをいただきました。

 

レースが、終了に近づいている中でスタートバーを切る。旗門から旗門を全力で走り抜けながら、途中で恩師がコースに入ってくるのではないかと言う勢いで応援してくれている姿に力を貰い、私は肩で息をしつつ、立つのもやっとの状態でゴール。そのまま、倒れこみました。

 

結果は、見事に優勝!

 

念願の目標を達成できたこと。この時の感動は今でも鮮明に覚えております。2年間の下宿から沢山の事を学び、その経験は私の宝物となりました。

 

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2023.11.15 清水山スキー場での経験①

私は、小学5~6年生の時に、下宿をしました。村にスキー場を作りスキー選手育成をされていた矢口富士郎プロの所でお世話になりました。

 

私は、4年生の時に初めて出場したスキーの大会で惨敗した悔しさから、「上手くなりたい!」と言う思いだけで飛び込みました。しかし、人見知りな私は、お会いした事のない大学生、高校生が日替わりで来られる。そこには私の居場所がないと感じていました。

 

その時、居候されていた方々のお心遣いにより少しづつではありますが、その環境に慣れていく事と、日頃のトレーニングにより自分の居場所を見つけることが出来ました。

 

私の目標はただ一つ。

エリートと言われる、スキー場で民宿を経営する家に育った「同窓生」に勝つ事でした。そのエリートに追いつく為に、6年生の時は1年を通して下宿をさせていただきました。

 

さて、その経験から、エリートに勝つ事はできるのでしょうか。ここから先は、次回になります。

 

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2023.10.15 創業のきっかけ

私は、祖母が大好きです。

 

両親は、自営業で仕事が忙しく殆ど家にいませんでした。そんな時は祖母と一緒に畑に行ったり、祖母の大好きな時代劇を一緒に観たり過ごす時間がとても楽しかったです。その影響から、棒切れを刀に変えて草花に立ち向かっていた(笑)。いつでも、笑顔で自分に接してくれました。しかし、戦争の経験者である祖母は、この事を私に伝える義務があると強く思い私に話してくれました。

 

その時の祖母には、笑顔が無かったことから子どもながらに想像を絶する大変なことが起きたのだと理解しました。

そのように私に接してくれた祖母が体調を崩した時に私は気遣う行動が取れなかったのです。祖母は、そのまま帰らぬ人となりました。

 

その時の辛い経験がある為に、高齢者の皆様に寄り添い、お困り事に応えられる事業がしたいと考え創業に至りました。高齢者の皆様の笑顔を増やし地域の課題解決をしていきます。

 

最後まで、お読みいただきありがとうございます。